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4. 本州を走り抜く

台風18号が直撃するほんの数時間前、私達はフェリーで本州に上陸し、大間に落ち着いた。壁に打ち付ける不気味な音を聞きながら小さな民宿に泊まった夜は、北日本の大部分が台風によって破壊されているかのようだった。

受付の10代の女の子が着ていた「Relax it’s only sex」と書かれたTシャツに目を向けると彼女はニヤッと笑っていた。彼女の両親は英語が分からないという事なのだろうか?

青森を移動中、コンビニの外でハルコが青森弁に困っていた。「言っていることが聞き取れない」「日本語じゃないみたい」。

日本海に沿った本州の西岸は、人口が少ない(=走りやすい)ことが約束されている。そこで、日本海側へいくため、岩手県の花巻から本州を横断することとなった。

いくつもの気絶するほどの山道を通ったが、その際、緑茶は日中30度を超えるような日にはとても爽やかで元気の源になるということが分かった。横手を通り、そしてついに日本100名山の一つである鳥海山周辺に辿り着いた。

自転車旅行者として、そして外国人としてほぼ毎日、私達を感動させるために選び抜き取っておいた作品の数々をみるようだった。

日本の地方や田舎で出会う人々は、また別の楽しみであった。ニュージーランドと比較して日本の農業は非常に厳しい労働を要する園芸のようである。農業に携わる中年層は肉体労働やアウトドアライフを楽しんでいるようにも見えた。豊かな土壌は、とびきり豊富な穀物、米、さつまいも、大豆、そして西洋人の目には奇妙に見える沢山の種類の野菜を作りだす。

私達はしょっちゅう止まって地元の人々と話し、ハルコが通訳してくれた。さつまいも畑で作業をしていた二人の女性は特別に楽しかった。「会話が通訳されているのはテレビの中でしか見たことがなかったよ」と彼女たちはクスクス笑った。

山形県の温海近くで自転車を止め、田んぼで稲刈りをしていたミチ子とおしゃべりをしていた。台風が稲刈り間近の稲に海水をぶちまけてしまったのだ。「自分の時間は全部自分のものよ」彼女は優しい笑顔でそう言い、「うちへお茶を飲みにいらっしゃい」と誘ってくれた。

ママチャリで走るミチ子の後ろをついていくと、彼女の家は古い、快適な農家の家だった。裏庭の上に崖が切り立ち、不安定な様子でコンテナワゴンを積んだ列車が通りすぎていった。

お茶だったはずが、宴会ランチとなり、ミチ子の夫と彼女の93歳になる義母も同席することとなった。何という日本人のおもてなしだろう。何日にも及ぶ長距離の輪行の疲れも吹っ飛んだ。私達は世界中でもフレンドリーな人とたちとの付き合いを楽しんでいた。

日本海に沿ってしばしば細い、曲がりくねった、村道へ回り道をした。自転車の旅での長所の一つだ。

新潟の南からは、長野県や日本アルプスに向かって内陸のルートを選んだ。天候不良で数日足止めをくらった。ある夕方、長野市の小さなカフェに座り、道路の上をダンスするように跳ね上がる雨を見ていた事は最高の思いでの一つだ。

その夜の夕飯には大好物の枝豆などの素朴なつまみと共に、大きな冷えたグラスに入ったビールが出された。続いて、焼き魚、カリッと揚がったフライ、牛肉のタタキなどなど。日本料理は間違いなく自転車の旅行者にとって素晴らしい料理である。

また、別の機会にはガイジンキラーの「納豆」に挑戦した。若くて可愛いお嬢さんにまで「まるでウンチのような匂いなのよ」と言われてしまった。

上田の山では「無言館」へ向かう非常に急な斜面を登った。「無言館」とは窪島誠一郎によって設立された美術館で、第二次世界大戦で亡くなった芸術大学の学生の作品を展示している。ハルコは3年前にこの美術館について説明してくれていた。彼女は「無言館」を『静かな家』と訳してくれた。

「作者たちは、もはや話すことができません。私たちは残された作品を見て彼らの生命を見るだけです。しかし、作品や手紙を見た時、芸術家としての将来は非常に可能性があったということを知るのです」

悲しいながらこの才能溢れる若い芸術家たちの何人かは、太平洋戦争でニュージーランド人と戦って死んだのではないか、と思っている。

松本市からの厳しい上り坂を超えて、ようやくリゾート地でもある上高地に辿り着いた。1890年代に英国人ウォルター・ウェストンが日本山岳協会を設立するきっかけとなった場所である。

今回の旅ではしばしばトンネルを通過し、トンネルは山をショートカットできるので、歓迎すべき存在であった。時には台風とともにやってくる暴雨から逃れる仮のシェルターの役割も果たしてくれた。しかし、上高地から高山へ抜ける長いトンネルは自転車走行が許されていない。従って1780メートルという日本で最も標高の高いところにある国道、安房道へ向かって14キロも回り道をしなければならなかった。

(ニュージーランドの国道で最高地点なのは、サザンレイク地区クラウンレンジにある1078メートルであり、人気の自転車道である)

高山を越えて次なる高所、伝統的茅葺き屋根の集落で有名な白川郷を通り、南下して岐阜市へ、そして日本で最大の琵琶湖へ向かった。琵琶湖は11世紀に紫式部によって書かれた世界最古の小説『源氏物語』の中でも取り上げられている。

湖の周囲でキャンプをしているとき、韓国人サイクリストで雑誌『Bicycle Life』の編集者であるBaek-Shung Chaと出会った。Chaは韓国と日本が友好関係にある場所を訪ねながら日本中を回っていた。(いくつかの報道から私は韓国と日本はお互いに友好な関係にはないものだと思っていた。しかしChaは、日本人と交流を楽しみたいから日本を旅行しているのだと話す韓国人のうちの一人であった)

Chaは事故によって増水した川に落ち、片腕に大きな怪我を負い、カメラ、自転車、そして彼自身もが溺れてしまうような経験をしていた。

日本海側に戻った私達は、天橋立を訪れた。海岸線に沿って本州の残りを進んだが、唯一内陸に入ったのは鳥取県。自転車を諦めて三徳山投入堂まで登った。断崖絶壁の岩の中にある投入堂は706年に建立された寺である。

途中で挫折する人達を横目に、私達は何とか上までたどり着いた達成感と、まだかろうじて生きていた喜びを胸に、小さい村の細い道を下っていった。

長くチャレンジングな一日の最後には、遅い午後の柔らかな光の中を畑から家路に向かうお百姓さんたちの横を楽々と滑るよう下った。四つ角では農機具や収穫物で一杯になった四輪の手押し車や魚屋に出会った。魚屋のスピーカーからは日本の童謡が村中に高らかに響きわたっていた。

どこかの村に似ている・・と思ったのがホビトン村。

ロード・オブ・ザ・リングスは、ニュージーランドで撮影された映画である。しかし、ホビトン村は確かに日本にも存在したのだった。

[3. 満足な自転車放浪生活] [5. 規則正しい交通事情、不器用な事故、そして愛への好奇心]

last modified:27, 06, 2008